乙未事変 日本政府の対応
この事件では朝鮮が親露化によって日本の影響力が低下することを恐れた日本公使・三浦梧楼が暗殺を首謀したという嫌疑がかけられた。外交官が王族を殺害することに関与するという行為に、日本は国際的な非難を恐れ三浦を含む容疑者48人を召還し裁判にかけたが、首謀と殺害に関しては証拠不十分で免訴となり、釈放した。また、後に与謝野晶子の夫となる与謝野鉄幹も加わっていたとされたが、当日に木浦で釣りをしていたアリバイがあったとして、広島地裁検事局は免訴とした。
朝鮮政府の対応
朝鮮政府は「王妃殺害を今回計画したのは、私です」などの証言もあったため李周会(逮捕)、朴銑、尹錫禹3人とその家族を三浦らの公判中の同年10月19日に処刑している。
さらに閔妃暗殺の現場にいたと考えられる高宗は、露館播遷後、ロシア公使館から閔妃暗殺事件の容疑で特赦になった趙羲淵(当時軍部大臣)、禹範善(訓錬隊第二大隊長)、李斗璜(訓錬隊第一大隊長)、李軫鎬(親衛第二大隊長)、李範来(訓錬隊副隊長)、権濚鎮(当時警務使)の6名の処刑を勅命で命じている。
閔妃暗殺の2日後(10月10日)、興宣大院君の意向により、閔妃は王后の地位を剥奪され、平民に落とされる。(興宣大院君と閔妃の権力闘争は興宣大院君#略歴と年表を参照)
事件の影響
閔妃は、微妙なバランス感覚による外交政策を得意にしていたとも言われるが、具体的には大院君への怨念ともいえる確執の政治姿勢で貫かれていた。これらの政策が逆に仇となり大院君に代表される反対派勢力による暗殺を呼び込むことになった。閔妃暗殺後、日本は朝鮮の保護国化政策を進めていくようになる。
事件の首謀者
実際の暗殺の真の首謀者、実行者は誰であったかについては、日韓外交資料、梅泉野録、アジア歴史資料センターによる公文書、ロシア参謀本部中佐の「朝鮮旅行記」による記述の検討がなされているが、真相はいまだに明確ではない。
首謀に関しては、国立国会図書館憲政資料室 憲政史編纂会収集文書の整理番号 546 「朝鮮王妃事件関係資料」によれば、当時の日本政府による計画的な策謀でないことは判明している。加えて 殺害の実行犯に関しても様々な説はあるが、統監府文章に収録されている該当年の往電第31号によると、殺害現場にいた純宗の言で『乙未事件ニ際シ、現ニ朕ガ目撃セシ国母ノ仇、禹範善』となっているだけでなく、『禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ』と自ら犯人であることを漏らしている。この禹範善は、純宗が放った刺客、高永根と魯允明によって広島県呉市において1903年(明治36年)11月24日暗殺された。これに関して1907年2月4日、広島控訴院で高永根に無期、魯允明に12年の刑が言い渡され、判決が確定している。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
朝鮮国王王妃であった閔妃が暗殺された事件です。
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